イエス様の重要な教訓は「愛」である(マタ22:37-39、ヨハ13:34)。イエス様は、敵をも自分の体のように愛しなさいと言われた。
神様は、このように世を愛して、ひとり子をお与えにになり(ヨハ3:14-16)、イエス様は罪人の代わりに十字架を負ってくださった(マタ27章参照)。私たちは、何をイエス様に捧げるのか。私たちが神様の子として、この世の主人たるべき道理に基づき、光として現すべき姿とはどのようなものなのか。
世俗的に言えば、私(約束の牧者)は、約500年の歴史を継承してきた朝鮮王家の子孫である。神様の子であるイエス様は、ユダヤ人の王として来られた(マタ2:2、マタ27:11、ヨハ18:37参照)。これは、政治的な王ではなく(ヨハ18:36)、ユダヤ人を救う救い主を意味する。そうであるならば、神様の子である私たちも、王の種で生まれた者たちである。私たちも、神様の子であるイエス様のように、光となる姿があってこそ(ヨハ12:46参照)、王の種で生まれたという証拠となるだろう。聖書の前で、自分の姿を探してみよ。
王家の子孫としての歴史はあっても、王家の子孫らしい行動がなければ、王家の子孫である証拠になるだろうか。王家の子孫だと言う前に、その行動に王家の子孫らしい姿が伴っていなければならない。名前は王家の子孫でも、その行動がひどいものならどうするのか。本物の王家の子孫かどうかは、その行動が物語ってくれるだろう。
時代ごとに、神様から遣わされた者は、預言(約束)が成就したことと、その預言の実体を見て来て伝えたので、信仰者たちは彼の証しを信じなければならなかった。今日の啓示録の成就の時も同様である。人は誰でも皆、罪(原罪、遺伝罪、自犯罪など)を犯しているため、神様の御言葉の種で新らしく生まれ、再創造されなければならない。全世界の中で、新約啓示録通りに創造され、啓示録に精通している所は、ただ新天地だけである。新約啓示録を加減すれば、天国に入ることができず、呪い(災難)を受けると言われた(啓22:18-19)。伝統教会の神学博士たちと牧者たちと信徒たちは、この書、啓示録を加減しなかったのか。皆、加減した。加減したなら、天国には入れない。悔い改め、新約の啓示の御言葉で新たに生まれなければならない。新たに生まれたか。霊魂も肉体も、ということだ。
神様とイエス様が光であられるように(ヨハ1:1-4、ヨハ8:12参照)、私たちも世の光である(マタ5:14)。神様の子である私たち新天地の聖徒たちは、暗い世にいのちの光を照らし、多くの人々を救うようにしよう。また、神様とイエス様は愛そのものである(Ⅰヨハ4:16、ヨハ13:34)。新天地の聖徒たちは「敵をも愛せよ」という神様とイエス様の永遠の愛に習い、私たちを迫害する者たちにも愛を注ぎ、彼らを天国と永遠のいのちへと導くために、休むことなく祈り、無償で新約の啓示の御言葉を伝えよう。これが、新天地を知らせる光である。アーメン。

コメント
コメントを投稿