新約啓示録を加減したら、天国に入ることができず、呪い(災い)を受けると言われた(啓22:18~19)。カトリックとプロテスタントは啓示録を加減し、新天地は精通した。では、誰が異端であり、誰が正統なのか。
信仰者は聖書を基準として信仰しなければならない。聖書を離れた、いかなるものも正当化され得ない。聖書から外れたものが異端なのである。
腐敗した以前の世界の牧者たちが、神様が遣わされた新しい牧者とその教会を異端だと迫害したことは、イエス様の初臨の時も再臨の時も同じ現象である。初臨の時、エルサレムの牧者たちが、救い主であるイエス様を異端としたように、今日ではカトリックとプロテスタントが、新天地と約束の牧者を再び異端であるとした。カトリックとプロテスタントの立場から見れば新天地が異端であり、新天地が見ればカトリックとプロテスタントが異端である。新約聖書の啓示録を基準として見るならば、誰が本当の異端なのであろうか。新約啓示録を基準として100問題で試験を行えば、誰が真の異端であり、誰が正統であるかが明らかになるであろう。そのため、新天地はカトリックとプロテスタントに、新約啓示録を基準とした100問題で公開試験を行おうと幾度も提案してきたが、彼らはいまだに一人として応じていない。これは、彼らが新約聖書に無知であり、勝つ自信がないためである。では、誰が勝ったのか。新天地が真理で勝利した。
新天地が証しする新約の啓示の御言葉は、プロテスタントやカトリックよりも百倍真理であるが、彼らに無条件に異端と言わなかった。異端であるか否かは、神様と聖書を基準として区別されるべきである。プロテスタントとカトリックは、自らが異端であるため、その心の中にある「異端」という言葉が外へと現れるのである。ああ、実に興味深いことである。自らが異端でありながら、正統に向かって「異端、異端」と言ってきたのである。真の異端とは、聖書の外のことを語る伝統教会である。新天地は、新約啓示録が預言した事の実体に至るまで、すべて見聞きしており、その見聞きしたことを証ししている。啓示録成就の時は、預言された啓示録の実体が加減なくすべて現れる。新天地は、啓示録の預言とその実体に至るまで精通している。預言が成就したならば、現れたその実体を信じよとされた。これを信じなければ地獄行きであり、見て信じるならば天国行きである。また、新約啓示録を加減すれば、天国に入ることはできないと言われた。聖書をどうして廃することができようか(ヨハ14:29、啓22:18~19参照)。
新約啓示録が成就した今日、啓示録に精通した新天地が正統であり、加減したカトリックとプロテスタントが真の異端である。アーメン。

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