啓示録成就の時であり、主の再臨の時である今日、イエス様が再臨されて新約啓示録を成し遂げられ、新天地の約束の牧者に啓示録全章の出来事をすべて見せてくださり、これを諸教会に証ししなさいと仰せられた(啓22:8、16)。よって、新天地には、新約啓示録を成し遂げた実体がある。
初臨の時のイエス様の証しは、旧約を成し遂げた実体たちであり、今日の新天地の証しは、新約啓示録を成し遂げた実体たちである。しかし、プロテスタントとカトリックには、啓示録を成し遂げた実体がないため、啓示録を加減した。誰が真の証しで、誰が偽りの証しなのか。これは公開聖書試験を行ってみれば分かることである。そこで新天地は、プロテスタントとカトリックに「新約啓示録を基準に大衆の前で公開試験を行い、真の異端と真の正統を区分しよう」と数回提案したが、彼らは応じなかった。なぜカトリックとプロテスタントは試験に応じないのか。試験に応じることができない理由は、彼らが新約啓示録に無知で、試験に勝つ自信がないからだと思われる。よって、新天地は真理(啓示の御言葉)によって打ち勝った。アーメン。
今、プロテスタント⋅カトリックと新天地との関係を見る時、イエス様の初臨の時のエルサレムの牧者たちとイエス様との関係と同じだと言える。イエス様の初臨の時、旧約聖書に無知なエルサレムの牧者たちがイエス様に異端だと言ったのと同じように、今日、新約聖書の啓示録に無知なプロテスタント⋅カトリックの牧者たちが、新天地に対してまた「異端、異端」と言った。しかし初臨の時、エルサレムの牧者たちが真の異端であったように、今日、啓示録を加減したプロテスタント⋅カトリックの牧者たちが、真の異端である。事実がこのようであるにもかかわらず、プロテスタントとカトリックの牧者たちは、聖徒たちに自分たちの無知を隠すため、自分は正統だと自称し、新約啓示録に精通する新天地に異端だと言った。新約啓示録が成就するこの時、聖徒たちはどこへ行かなければならないのか?啓10章で開かれた啓示録の本を受け取って食べ、啓22章 8、16節のように、啓示録全章の出来事を見て証しする所へ行ってこそ、ノアの時のように救いの箱舟に乗った者となるのである。
新天地は新約啓示録通りに、まるで判子を押したように創造され、啓示録の実状までも精通する。カトリックとプロテスタントは、新約啓示録通りに創造されず、啓示録を加減した。新約の啓示の御言葉で印を押され、啓示録に精通する、ここ新天地に、神様も天国も来られると約束された(啓21-22章)。しかし、新約啓示録を加減したプロテスタントとカトリックは、天国に入れず、硫黄の火の池の地獄に入るであろう(啓22章参照)。

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