マタ7章21節でイエス様は、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」と言われた。「神様の御心通り」ということである。
啓22章18-19節の神様の約束の御言葉を見たところ、啓示録(黙示録、以下啓示録と表記)の御言葉を加減すれば、天国に入れず、のろい(災害)を受けると言われた。牧師と聖徒の皆さん、啓示録を加減しなかったのか?牧師たちは、なぜ聖徒たちに啓示録をすべて加減して教えたのか?目の見えない者なのか?耳の聞こえない者なのか?啓示録に精通しているのなら、その言葉が偽りなのか、まことなのか、大衆の前で一度試験をして、確認してみよう。応じるのか?なぜ、できないのか?口では、「信じる、天国に行く」と言いながら、事実は、啓示録を加減している。神様の御前で、世の万民の前で、一度でも本当のことを話そう。試験をして確認してみよう。誰が異端なのかということである。
私が見たところ、プロテスタント教会の牧師と聖徒たちは、神様の御心もわからないのに、「主よ、主よ」と言えば、天国に行くと信じている。これは、偽りの信仰人である。口で「主よ、主よ」と言うだけでは、天国に入れないと言った。また、新約の啓示録を加減すれば、天国に入れず、のろい(災害)を受けると言った。加減しなかったのか?これから、どうするというのか?
初臨の時、旧約に精通して、成し遂げられたイエス様を、当時のエルサレムの牧者たちが、「異端、悪魔」だと言ったように、今日、新約に精通する約束の牧者を、プロテスタント教会の牧者たちが「異端、悪魔」だと言っている。これは、盗人猛々しいのではないか?新約聖書の前で、自分を確認してみなければならない。「自分は、本当に新約の啓示録通り創造されたのか?啓示録を加減しなかったのか?」確認、さらに確認しなければならない。また、新約の啓示録の約束通り神様の種で生まれて、収穫されて、印を押されて、約束の12枝派に、私の名前が登録されたのか、確認してみたのか?偽の信仰人ではないのか?偽 の信仰人であることが明らかになった時、どうするのか?地獄の火の池に入っても、このままでいいのか?では、なぜ、信仰をしたのか?私が、こう言うのは、叱責しようとするのではなく、もどかしいのである。啓22章8節と16節を見なさい。
プロテスタント教会は、啓示録に精通する新天地を異端だと言った。イエス様の初臨の時のエルサレムの牧者たちのように。今、主が審判を始められるならば、どこに行こうとされるだろうか?高慢を捨てて、へりくだり、聖書の御言葉と自身の信仰を互いに照らし合わせて、間違ったことは直さなければならない。本当にもどかしい。
今、この時、新約の啓示録に精通する約束の牧者が来て、証ししている(啓10章、22:16)。天国と救いを願う者は、来て、聞いてみなさい。
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