新天地、プロテスタント教会の多くの聖徒たちが、新天地に集まって来る理由

 





 動物も植物も食物がある所を探す。道を行き来する人、だれに聞いても、食べて生きるために探し歩くと言う。肉的な食物を食べてこそ、肉体が生き、霊的な食物を食べてこそ、霊が生きる。もし、植物や動物が、食物を摂取しなければ死ぬだろう。このように、聖徒たちが自分の教会を離れて、新しい教会を探すのは、霊的な食物が新しい教会にあるからである。もし、新しい教会に食物がないなら、なぜそこに行くだろうか?聖徒が教会に行くのは、神様が下さる霊の食物を食べるためである。教会に食物がなければ、聖徒たちは、食物がある所に行って、食べるのである。これが、当然な道理ではないのか?

 プロテスタント教会から新天地にやって来るのは、新天地に霊の食物があるからである。聖徒が、自分の教会を離れて他の教会に行くのは、自分の教会の牧師にいのちの御言葉(食物)がないからである(アモ8:11-12参考)。だから、聖徒が教会を離れるのは、御言葉がない牧師に、その責任があるのである。この事実を見据えず御言葉のない教会の牧師が、御言葉を探して離れた聖徒と、その聖徒が探し当てた教会を迫害しなければならないのか?これは、間違った振る舞いである。聖徒が御言葉を探し当てた教会を迫害する者(聖徒が離れて行った教会の牧師)は、狂犬より劣る野の獣のような者である。このような者からは、牧師の資格を剥奪しなければならない。

 宗教人が迫害をするのは、その人に悪魔の霊が入っているからである。むやみに迫害するのではなく、まず互いに会って話し合い、事実確認をしなければならない。新しい契約、啓示録(黙示録、以下啓示録と表記)を加減して、また教える実力がない者なら、そこから離れて、啓示録に精通している所に行き、学び、まことの食物を食べなければならないだろう。教える実力もない牧者は、交代しなければならない。これが信仰世界に、必ず、必要である。今すぐにでも聖書による試験を行い、合格した者で牧者を立てなければならない。政府にも、教会の責任者にも、これが急を要することである。

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