神様の種で生まれた者が、預言された御言葉を成し遂げられる時に、見て聞いて、それ(実状)を証しすることが真の正統であり、啓示された預言の御言葉を自分の判断で偽りの解釈をすることが異端である。聖書に記録された預言は成就する時があり、成就する時はその預言された事の実体がすべて現れるので、それを見て証しするのである。実体もなく証しするということは、預言された事を恣意的に解釈しているだけにすぎない。
新約啓示録22章には、啓示録を加減すれば、天国に入れず呪い(災害)を受けると警告された。この本、啓示録を加減しなかったのだろうか。啓示録を加減した者と、偽りの証しをした者は呪いを受けるのである。この本、啓示録の預言が成し遂げられる時は、預言された事の実体がすべて現れる。それゆえ「預言と実状」という言葉があるのである。そして啓22章では、この本、啓示録全章の出来事の実状をすべて見て証しする者がいる。
啓示録の預言が成し遂げられていなかった時は、その預言の実体は存在しない。ゆえに、この本、啓示録を成し遂げる前には実体はないが、成し遂げる時には約束された預言の実体が現れるので、それを見て信じなさいと言われたのである。それゆえ、啓22章8節にあるように、また啓10章と11章のように、時になれば、啓示録全章の預言が肉体となり、本に約束された実体が加減なくすべて現れる。この時、この実体を見ても、初臨の時のエルサレムの牧者たちのように、また信じられず迫害する者は、地獄の火に入ることになるだろう。しかし、新約啓示録に無知な者たちは、イエス様の初臨の時のエルサレムの牧者たちのように、新約啓示録が成し遂げられて現れた実状を見ても、また信じられず、迫害するだろう。ゆえに、新約啓示録の実状を証しする者は、細心の注意を払わなければならない。
この本、啓示録の成就の時は、啓22章と10章のように、たった一人(約束の牧者)がこの本を受け取って食べ、全章の出来事をすべて見て、この本の成就の出来事を証しする。この時もまた、昔の初臨の時のように、彼を異端だと言って迫害するのではないだろうか。啓11章には、また約束の牧者を殺すことまですると記録されている。誰が殺すのだろうか。
今日の伝統教会の牧者たちは、神様が遣わされた牧者を見ると、必ず「異端」だという考えを先にした。しかし、今日の全世界の伝統キリスト教徒の中で、この本、啓示録に精通している者は一人もいない。啓22章には、この書を加減すれば天国に入れず呪い(災害)を受けると言われている。伝統教会の牧者たちは、この約束の御言葉を信じ、守ったのか。
神学博士たちと牧者たちは、この本、啓示録を加減しなかったのか?皆、加減した。それにもかかわらず、啓示録を証しすると、誰彼構わず異端だと言った。では、自分たちは何段なのか。しかし新天地は、新約啓示録(預言)の真の意味と、全章の出来事の実体にまで精通している。それにもかかわらず、伝統教会の神学博士たちと牧師たちは、昔の初臨の時、エルサレムの牧者たちがイエス様にしたように、また異端だと言った。それゆえ新天地は、新約啓示録を基準に、大衆の前で公開試験を行い、異端と正統を区別しようと数回提案したが、いまだに返答はない。
神様とイエス様が新約に啓示録の本を与えられ、この書を加減すれば天国に入れず呪いを受けると仰った。しかし、カトリックとプロテスタントの牧者たちは皆、この本、啓示録を加減してきた。このように牧者たちが皆、盲人、耳しい者となったので、従う聖徒たちも共に穴に落ち込むだろう(マタ15:14)。
四福音書のイエス様の御言葉のように、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも地獄の穴に落ち込むのである。誰が? 偽りの証しをした牧者たちである。啓22章がその証拠になるのである。
今日の真の正統とは、新約啓示録(預言)の真の意味と共に、その成し遂げられた実状を見て聞いた通りに証しする者(所)であり、啓示録に精通している者である。そして真の異端とは、啓示録の実状を見て聞くことがなく、預言を恣意的に解釈する者であり、啓示録を加減した者である。

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