新天地が信じる新約の預言とその実状

 


 啓22章に、啓示録を加減すれば天国に入れず、呪い(災害)を受けると記録されている(啓22:18-19)。しかし、プロテスタントとカトリックは新約啓示録を加減しておきながらも、啓示録に精通する新天地に異端だと言った。だが、それは、新約聖書に約束された啓示録の預言が成し遂げられたことを証しする御言葉を、異端だと言ったことであり、聖書には合わないことである。彼らが新天地に異端だと言った理由は、自分たちの教会の信徒たちが新天地の教理(啓示の御言葉)を信じて、新天地に多く移ったからであった。昔、ユダヤ人たちがイエス様に従ったことで、イエス様に異端だと言ったように、今日もそうであった。そこで、新天地は御言葉大聖会を開き、プロテスタントとカトリックの信徒たちがその証しの御言葉を聞いて、自分たちの教会から出て、新天地にたくさん(数万人)押し寄せて来た。教団と教理のうち、どちらが重要なのか?啓22章18-19節を見なさい。プロテスタントとカトリックはこの聖書の御言葉を信じるのか?

 今日のこの世の中の信仰人たちは、啓6章の腐敗した伝統教会と同じであり、新天地人たちは、啓7章と14章の神様とイエス様の御言葉で印を押され、新しく創造された人々である。プロテスタントとカトリックの人々は、口では真の信仰を願っているが、行動では約束の御言葉とはあまりにもかけ離れている。それでもなお、昔の初臨の時のユダヤ教の牧者たち(エルサレムの牧者たち)がイエス様に異端だと言ったように、今日もまた新天地を異端だと言い、自分たち(プロテスタントとカトリック)は正統だと言った。しかし、御言葉の中で見ると、プロテスタントとカトリックは啓示録を加減し、非真理を伝えたことがあまりにも多い。そこで新天地は、誰が正統で誰が異端なのかを見分けるために、啓示録を基準とした公開試験をしようと何度も提案したが、未だに一人も応じなかった。彼らは新約啓示録に無知であり、公開試験で勝つ自信がないため、試験に応じなかったのである。したがって結局、新天地が真理で勝ったのである。

 地上の信仰者たちが真の信仰を願うとは言っても、新約啓示録22章の御言葉のように、皆が啓示録を加減したので、天国に行けるのだろうか?この言葉が事実ではないか?啓示録の預言の真の意味とその実状について、六課原則に基づいて試験をしたら、彼らは正答を書けるだろうか?ほぼ100%誤答を書くはずである。よって、彼らは皆、口先だけの信仰をしていたのである。新天地に出て来て、六課原則に基づいた証しの御言葉を聞き、啓7章のように印を押されてこそ救われるだろう。

 啓示録2-3章と12章では、勝った者と負けた者について記録されている。プロテスタントとカトリックは新約啓示録の預言の真の意味も、その実体も知らなかった。これは、イエス様の初臨の時、旧約を成し遂げた実状に無知だったユダヤ人の牧者たちと同じ現象でありながらも、自分たちが正統な信仰者であるかのように叫んでいるが、新天地が提案した公開聖書試験には応じなかった。新天地は試験で100%勝つ自信がある。

 この本、啓示録を加減すれば天国に入れず、呪いを受けると啓22章に記録されている。プロテスタントとカトリックは啓示録を加減しただけでなく、啓示録に精通した新天地を異端だと言った。審判の時には、記録されたこの本の御言葉で裁くと、啓20章に約束されている。新約啓示録を加減した者、偽りの証しをした者は、一人も天国に入れない。新約四福音書には、主の再臨の時が、ノアの時と同じだとおっしゃった(マタ24:37-39、ルカ17:26-30参照)。

 自分たちが見ても聞いても分からない本である啓示録を、六何原則に基づいて教えてあげるなら、ありがとうと感謝するべきなのに、プロテスタントとカトリックはかえって新天地に、初臨のイエス様の時のエルサレム牧者たちが、イエス様にしたように、呪いと悪口を浴びせた。彼らの心にはどのような霊が入っているのか?そこで、公開聖書試験をして、誰が異端なのかを確認してみようと言ったのだ。なぜ公開聖書試験に出て来ないのか? 出て来なさい。

 今の伝統教会の牧者たちは、イエス様の初臨の時のエルサレムの牧者たちと、全く同じ行動をしている。これが正統なのか?本当の正統は、啓示録が成就される時、啓7章のように神様とイエス様の啓示の御言葉で印を押されて、創造された12枝派だけである。目と心があるなら、啓7章を読んでみなさい。新天地は新約啓示録の預言とその成し遂げられた実状を信じ、これを証ししている。誰が異端で、誰が正統なのか? 来て確認してみなさい。

コメント