以前の天と以前の地は、啓6章で審判されてなくなった先天世界であり、新しい天、新しい地は、啓6章の事件の後、啓7章で印を押されて再創造された神様の新しい国と新しい民族12枝派である。 新天地が御言葉集会をする時、多くのプロテスタントの牧師たちが集まって来た。この時、新天地の約束の牧者が、参加した牧師たちに「牧師の皆さんは、どの枝派の所属ですか?」と尋ねた。しかし、牧師たちは答えられなかった。なぜ、答えられなかっただろうか?啓示録6章の出来事の後、啓7章で印を押された事がないからである。啓6章は、腐敗した一つの時代(先天)が審判されて終わる事を言ったのであり、啓7章は、先天が啓6章で審判されて終わった後、印を押された者たちで12枝派が創造された事を言ったのである。 約束された聖書は、廃棄されるものではない。新天地は、聖書の約束通り啓6章の背教した選民の審判の事の後、啓7章から印を押されて創造された。これは、新約啓示録が証明する。新天地が啓示録の約束通り12枝派で創造された事が、これを証明するのである。アダムの世界が終わって、ノアの世界が立ったように、今日、新約啓示録の約束通り、以前の天、以前の地が終わって、新しい天、新しい地(新天地)12枝派が、印を押されて創造されたのである(啓21:1)。ここ12枝派は、神様の約束であり、啓示録の約束である。これを異端だと言う者こそが、異端である。新約聖書の約束すら知らぬ身でありながら、啓示録通り創造された新天地に「異端、異端」と言う事は、聖書に無知な者であり、精神異常者の行動である。 プロテスタントとカトリックは、新約啓示録を加減して、新天地は、啓示録の実状までも精通する。それなのに、プロテスタントとカトリックが、新天地に「異端、異端」と言った。それゆえ新天地は、プロテスタントとカトリックに、新約啓示録の基準で、大衆の前で公開試験をして、異端と正統を区分しようと何度も提案した。しかし、今まで一人も公開試験に応じなかった。自称正統が、なぜ異端が怖くて出て来られないのか?どんな正統が、このような有様なのか?試験に応じない事は、勝つ自信がないからである。ゆえに、新天地は真理で勝利した。 その昔初臨の時、エルサレムの牧者たちがイエス様に、異端、悪魔と言っていたが、今日は、伝統教会の牧者たちが、神様が立てた新天地に、また異端と言うのか?新天地は、異端ではなく、天端(「正統」という意味)である。 啓示録を加減すれば天国に入れず、のろい(災害)を受けると言われた。啓示録を加減した者たちが、新約啓示録の実状までも精通する新天地に「異端、異端」と言うとは、犬でも笑うだろう。新天地は、天端(千端)であり、迫害するカトリックとプロテスタントは、マイナス千端だろう。地獄が近くて、結構なことだ。 我が国(韓国)の憲法「第20条 第1,2項」には「全ての国民は宗教の自由を持ち、宗教と政治は分離される」と明示されている。このように、宗教が世の政治に干渉する事はできず、世の政治が宗教に干渉してもいけないだろう。新天地は、世の事にも政治にも干渉しない。ただ国民としての道理を果たすだけである。そして、信仰者として宗教的には、聖書の約束を信じて守る。それゆえ、新約啓示録に精通する。 新約啓示録が成就される今日、以前の天と以前の地が審判されてなくなって、神様の新しい国である新しい天と新しい地が創造された。腐敗してなくなる以前の天、以前の地は、伝統教会であるカトリックとプロテスタントであり、新しく創造された新しい天、新しい地は、新天地12枝派である。新天地は、新約啓示録の通り加減なく創造され、啓示録に精通する。そして、啓22章にあるように、毎月、十二種の実を結ぶいのちの木になった。いのちの木の実を食べれば永遠に生きると、創世記に記録されている。天国と永遠のいのちを願う信仰者ならば、新天地のいのちの木の実を食べて、希望に至る事を願う。アーメン。

コメント
コメントを投稿